スポーツ選手がゾーンに入るという言葉を使う事があります。たとえば、野球では一流の選手などがコンディションの良い時には「ボールが止まって見える」と言われております。また、周囲に気が散らずにプレーに集中できるという経験もあるそうです。

 

これはスポーツ選手に限らずバイオリニスト、ギタリスト、ピアニスト、歌手などの音楽家、ダンサー、画家、写真家などの様々なアーティストも経験される方も多くいるそうです。

 

また、アーティストやスポーツ選手に限らず、経営者やビジネスマンでも調子の良い時は企画やアイディアが降ってきたと感じたり、いくつもの仕事を同時にできるなどを感じる方も少なくないのではないでしょうか?

 

これらはゾーン体験と言われ、時間や空間が「今」という中に凝縮され、極度の集中力を発揮した状態と言われております。そして、そのような力は本来誰にでもある可能性があります。

 

そして、もしそのような体験や能力を手に入れることができるなら、皆さんの日常も変化するでしょう。その能力を何に使うかは皆さん次第ですが、今回は座禅によって「ゾーンに入る」方法を私の体験をもとにお伝えしたいと思います。

 

 

ゾーンに入った時の感覚

私は武道を通じてゾーンに入る感覚を何度も体験しております。また、武道においてはすぐにゾーンに入る方法がわかります。ところが、稽古着を脱いで日常に戻るとその感覚を応用する事が難しいのです。けれど、最近何となく分かってきたことがあります。それはある一定の条件を満たせば再現性を保てるということです。

 

その方法が有効かどうかを皆さんもこれから書くことを実践していただきながら、皆さん自身が検証していただければと思います。

 

さて、まずゾーンに入った感覚ですが、先に書かせて頂いた様に時間という感覚が消えるのを感じます。たとえば、剣で相手が打ち込んできたとします。剣の動きが止まって見えたり、スローモーションに見えるという表現よりも、とても親しみを感じるのです。

 

たとえば、子供の頃にキャッチボールをした経験のある人ならボールが自然にグラブに吸い込まれる経験をした人はおりませんか?よく、「ボールをよく見なさない」と野球教室などでは言いますが、ボールを見ようが見まいが自然とグラブにボールが入るのです。

 

それと同じように相手の剣が仲の良い友達が投げてくれてボールのように、あるいは父親との懐かしいキャッチボールのように自然と相手の剣を自分の剣で受け流したり、身体が相手の剣の通り道を開けるように感じて自然と避けるなどができます。その状態の時は頭の中は空っぽで身体が自然に動くのに任せて意識はそれを楽しんでいる感覚です。

 

また、たとえば自分より身体の大きくて力が強い人が掴みかかって来た時も、その強い力が溶けてまるで温かい水のように感じて、どこへその水を流してあげれば良いのかが何か心地よく感じると同時に、いつの間にか相手を制していたという経験がいくつもあります。

 

 
ゾーンとは何か?超集中

集中とは言い方を変えると集中の対象以外を遮断することだと言えるでしょう。たとえば、周りがどんなに騒がしくても何かに集中していると気になりません。ところが周りが騒がしいと勉強が手に付かないとか、仕事がはかどらないことがあります。コロナ以降、在宅勤務になり家では仕事に集中できずにストレスが高まっている人も多いと聞きます。

 

さて、集中すべき対象と周囲で起こっている出来事の優先順位がつけがたい時に集中は散漫になります。そして、「やりたい事」と「やりたくない事」の優先順位は自分の欲求による順位ではなく、たとえば社会的な都合であることの方が多いものです。つまり、日々の中で優先順位がつけがたい状況の方が遥かに多く、そのための私たちの日常は常に迷い、集中は散漫であるとも言えます。

 

そこで、大抵は何かの都合で「やりたくない事」の優先順位を引き上げるためにモチベーションという目的意識を刷り込みます。たとえば、受験を乗り越えればバラ色の人生が待っているとか、この仕事をやり遂げれば給料が上がるなどです。そのようなモチベーションの刷り込みについて皆さんは心当たりはありませんか?

 

けれど、それは代用品の目的であって心のどこかで「何か違う?」と感じて苦しむ人は少なくないのではないでしょうか?

 

さて、「ゾーンの超集中」は集中すべきこと以外を遮断することではなく、自分の中で全ての出来事が一点に集中することだと私は自分の体験から感じます。好きなことに没頭することは誰でもあります。その時に周りの状況とは関係なく好きなことに集中します。その時は周りの音や景色も消えた状態です。ところが、ゾーンの感覚は自分を取り巻く全ての状況も見えていたり、聞こえている上で自分自身の意識が時間軸と関係なく自由に動き回れるのです。

 

つまり、遮断ではなく融合なのです。この感覚は明らかに普段の意識とは全く異なります。この見出しの挿絵は2011年の東日本大震災の津波で被災した小雪の舞う地を草鞋に裸足に祈る僧侶がモデルです。この僧侶はおそらく遮断ではなく融合しているでしょう。

 

寒さ辛さを全て祈りの中で融合して祈りそのものになっております。それを仏教では慈悲と表現しております。悲しみを慈しむ。好きなことや好きな人を愛することは容易いのですが、対極にあるものを愛することはとても難しいことです。憎しみの対象にあるもの愛せるでしょうか?

 

悲しみを慈しむとは、憎しみさえも哀れんで慈しむ究極の愛とも言えます。その慈悲の心であらゆるものを慈しむ中で祈りと自己が一体になった状態が、壊滅した街で祈る1人の僧に現れています。これを三昧(ざんまい)、サンスクリット語でサマディといいます。

 

すなわち、行為と自分の境がなく、自分と自分を取り巻く世界の境がない状態です。この状態へ到達する方法を具体的にトレーニングするものが禅であると私は解釈しております。

 

「やりたい事」と「やりたくない事」との境もありません。つまり無分別の世界に入って分別を見極めるという事です。善も悪も、清も濁もない。その世界に入って改めて分別するという事です。

 

ここまで書きながら、これはなかなか言葉で伝えにくいと感じております。したがって、みなさん自身が体験するより他にありません。そこで具体的にどのようにして禅を体験できるかに書き進んで行きたいと思います。

 

 

座禅に入るための服装

よく、瞑想や座禅などの体験会では「楽な格好で良いですよ。」と言われるところもあります。気晴らし程度に禅を体験するならそれも良いでしょう。けれど、本気で極めてみたいと思うならば、身を改める必要があるのです。

 

理由は日常を禅に持ち込まないという理由です。ゾーンという超日常へ至るためには日常のしがらみや考え方、様々なものを脱ぎ去る必要があります。風呂に入るのに服を着たままの人はいません。禅に入る時はそれなりの格好で入るのが良いでしょう。

 

それではどんな格好が良いかと言えば、一番良いのは僧侶の衣装が良いのですが一般の方がみな僧侶になるわけには行きませんので、おすすめは剣道着と袴(はかま)が良いでしょう。剣道着の上は半着(はんぎ)という裾(すそ)が短い着物です。下は馬乗り袴と言って股が分かれたものです。普通の裾丈(すそたけ)の着物なら行灯袴(あんどんばかま)という股が分かれていない袴を着用します。

 

おすすめのポイントは着物と袴を着用することです。理由は着物の帯と袴の腰当てにあります。着物は左前に重ねて合わせ帯で腹と腰を固定します。このことで着物自体が身体の姿勢を固定する役割があります。そして、足を組む時にどうしても着物の裾(すそ)が乱れますので袴で足を隠します。そして袴の背当て更に姿勢を固定します。

 

つまり、座禅の姿勢をしっかりサポートするものが着物と袴(はかま)なのです。剣道着はインターネットでも手に入りやすく扱いやすいので初心者にはおすすめです。ちなみに着方もインターネットで検索するとあります。

 

ここで、大切なことを書かせていただきます。私たちは通常、何かの運動やリラックスする時には緩めの動きやすい服装をイメージしますが、それは固定観念です。最近ではアシストスーツという重量労働者用の姿勢を固定するコルセットや作業着がありますが身体を本来の骨格や筋肉に沿って固定できる着物は身体の潜在力を最大化するので身体が楽になります。楽になるとは内臓から安定することができるということなのです。

 

ぜひ、自宅で禅を組むと気には剣道着をおすすめします。

 

 

座禅に入る前の準備

座禅に入る前に身体を一旦リセットする必要があります。リセットしないままで座禅をすると傾いた家で座るようなものだからです。どんなに静かな場所やお香を焚いたりしても自分の身体が傾いていては同じです。

 

まず、自分の身体の骨格やバランスを出来るだけ自分で整えることが大切です。整える方法としては図のように足首をしっかり回すことが良いでしょう。身体の全体重を支える足首を丹念に回すことで身体全体の緊張がほぐれ、股関節や膝も緩みます。そして、足先にある末梢神経や毛細血管が刺激されて血行が良くなります。

 

方法はイラストをご参照の上、以下のように

 



 

 座禅の組み方と内観

図1

さて、座禅は姿勢がとても大切です。身体が整わないと精神も整わないからです。心と身体は別々ではありません。全く同じものです。姿勢とは骨格や内臓が安定し、脊髄が歪みなく脳からの指令、身体から脳への情報を交流できるようにすることが大切です。

 

図1のイラストは横からみた姿勢ですが。座布団やクッションを坐骨の下に折るか重ねると良いでしょう。坐骨が少し上がることで両膝が前に着きやすくなります。両膝が前にしっかり接地することで骨盤が適度に前傾して内臓が固定されます。顎は少し引いて目線を自然と前の床に落とします。

図2

眼は半眼(うす眼)です。眼を完全に閉じないのは意識を自分の内部でも外でもない状態におくためです。あくまでも五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)を覚醒させたままにすることで自己の妄想に流されないようにします。

 

足は図2のように組みます。利腕の逆が手も足も上になります。利腕が右なら左手と左足が上になります。これは利腕の方が力が入りやすくなるために下にすることで力を抑えるのです。

 

結跏趺坐(けっかふざ)は最初は慣れないと中々組めないでしょう。けれど、必ず組めるようになります。この座り方ができるということは内股の力が抜け、骨盤周りも緩みますので内臓も安定して骨盤に納まるのです。

 

すると横隔膜も動きやすくなり、腹式呼吸が楽にできるようになります。腹式呼吸が楽にできると副交感神経が優位になり全身がリラックスします。

 

この結跏趺坐(けっかふざ)ができたら、身体を左右に揺らし、前後にも揺らし安定したポジョンを取ります。自分の意識を身体の部分に向けます。足首や足の指の力が抜けているか、太腿や膝に力が入っていないか、肩や肘が力んでいないか、身体が前後左右に傾いてないないか、背中が丸くなっていないかを意識で確認します。

 

そして自然と姿勢が定まると呼吸も定まります。呼吸は鼻のみでいたします。静かに吸い、静かに吐く、呼吸すら忘れます。

 

雑念との対峙

座禅を組んでいると雑念が湧き上がります。私の場合はまず映像や感覚という言語ではない何かが現れて、そのイメージを言葉が追ってゆきます。やがて言葉が様々なイメージや感覚を描きます。ビジョン、ストーリー、シナリオです。このシナリオは堂々巡りを始めます。際限なく繰り返して行きます。

 

良いことや悪いことや様々なストーリーが言葉を核に展開してゆくのです。こうなると雑念が自分の意識を呑み込んでゆきます。この状態での座禅はあまり意味がありません。睡眠時のノンレム状態で夢を見ている状態と似ているかもしれません。

 

夢を見ている状態であれば睡眠で夢を見れば事足りるわけですから、わざわざ座禅を組んでまで白昼夢を見る必要はないのです。

 

では、この雑念をどのように取り除くかという方法は「頭の中に起こる言葉」を止めるのです。私の場合は言葉を止めるため言葉を用います。祝詞やお経を心に唱えます。祝詞やお経は完全に私の場合は無意識で言葉が口から出てくるほど身体に馴染んでいるので、自分が意識をせずにまるでCDから音楽が流れるように私の心の内側から自分の言葉を流すことができます。

 

おそらく、マントラや真言、念仏などはこの効果を狙ったものではないかと思いますが、無意識に起こる言葉を自分で聴くことに集中すると雑念が自然と消えてゆくのです。皆さんも簡単なお経か、マントラを覚えて無意識に唱えられえるように何万回も練習すると良いでしょう。雑念がわくとCDにスイッチを入れるのです。すると意識の中で起こる雑念が消えるでしょう。

 

これは私の感覚ですが、雑念はノイズ(雑音)ではなく、ハウリング(鳴音)のようです。マイクとスピーカーが近い場合にキーンと音が鳴る現象がありますが、それがハウリングです。なぜ、ハウリングが起こるかというと発したマイク音とスピーカーから戻る音がわずかにずれてこだまの様に繰り返すなかで共鳴作用によって異音が生じるからです。合わせ鏡の様に無限に音がこだまする状態です。

つまり雑念とは、自分の意思が言語化する時に意識と実際に言語された脳内の言葉とのわずかなタイムラグでハウリング現象を起こすことで、顕在意識(表面化した意識)が堂々巡りをしながら別な異音が入り込む状態が雑念と考えます。

 

このハウリング現象に意識が持っていかれると幻覚などを起こすこともあるでしょう。これを避けるために無意識の言語化を一旦遮断する意味でマントラや念仏は手段として有効な方法の一つとも言えます。音響のハウリングはオートゲインコントロールという跳ね返りの音を消すことでハウリングを止めますが、雑念もこの方法を使うということです。

 

さて、何を意味しているか読者にはわかりにくいかもしれませんね。このあたりは今後、このRelookのメンバーやライターさんの力を借りて研究して皆さんにお伝えしたいと思います。

 

ここでは、雑念がめぐることを止める方法として頭に浮かんでくる考え=言語を止めるとご理解ください。その方法はマントラや念仏に限らずに良いです。例えば、禅の初期の稽古方法に「数息観」があります。自分の呼吸を数えることに集中するという方法です。つまりは、自分の中に浮かび上がってくるビション、シナリオ、ストーリーを遮断するための方法の一つとも言えます。

 

よく、雑念が浮かんがらそのままにということも言われることがありますが、これは睡眠時の夢を見ることを同じで、脳の中のメモリーを軽くする方法とも言えますが、睡眠の場合は目覚めれば元に戻る仕組みですが、覚醒した状態でこれをすると先の書きましたように妄想や幻覚に引きずり込まれる可能があることと、そこまで行かなくてもトラウマが大きい人やナーバスな精神状態にある人は意識がマイナス面に引き込まれる危険がります。

 

雑念が湧き上がったら、数息観やマントラ、念仏などで一旦、その意識から離れた方が良いでしょう。

 

 

超感覚

意識の中で一旦言語が遮断されると、五感に感じることで呼び覚まされる意識が、様々な現象や自分を取り巻く環境との一体感を増幅されます。これを無分別な状態と禅では表現します。分別とは事物に特定の固定観念がタグ付けされた状態です。私たちは通常、自分を含めて自分を取り囲む全ての物や事を認識した段階でそれらにタグをつけております。

 

そのタグは自分が経験したことや、経験しなくても刷り込まれた概念が含まれます。そして、見ている景色や物や事そのものよりもタグの方に意識を向けてことが多いのです。そのために間違ったタグがついていたり、古くなったタグがそのままついていたりすると、物事の本質を見落としたり、見誤ることが多いのです。

 

そして、そのタグは言語によって書かれております。日本人であれば日本語で書かれているでしょう。そこで禅によって言語が取り外された状態が起こると一旦タグが外されます。その状態が「無分別」な状態です。

 

無分別な状態になると意識は物事を認識しないのではなく、観たり感じるものを丸ごと受け止めようとします。すると、これまで見ていなかった物事の別な側面が観えてくるのです。新しい世界が拓けるのを感じるでしょう。世界が全く別の側面を顕(あらわ)し、自分と物事がダイレクトに繋がることを感じた段階で、次は再統合が始まります。感じたことに新たなタグをつけようと意識が動き出すのです。

 

この意識の働きが創造性です。このタグ付けしようとする動きが生まれた時にまだこの段階では言語化するのを待ってください。感じるままに任せて創造します。膨大なビジョンと現実が重なって一体になる瞬間があります。そこがゾーンです。言語がなく創造性と感性が一体化した純粋な自我です。

 

 

目覚め

ゾーンの中に入ると時間という認識がありません。感じることと創造することが全く一つになった感覚に入ります。思考と経験のタイムラグがない状態で純粋な意識が存在します。

 

いつまでもそこに居たいという感覚なりますが、この状態から意識を再び無数のタグ付けされた世界へ戻します。

 

禅を解いて、世間のしがらみに身を戻します。すると、しがらみやタグ付けされた物事に対して、このタグは付け替えるべきだとか、しがらみの絡まりをとく糸口がわかったりします。これが無分別から再分別する状態です。無分別な状態はありがたいのですが、私たちは世俗というしがらみの世界で生きているので、それを断ち切って出家するか一生を森で過ごす仙人のような生活をする以外は分別の世界で生きるしかありません。

 

家族や恋人や友人との関係を大切にしてこの世界を楽しむなら、無分別から目覚めるべきでしょう。けれど、いつでもゾーンに入り、ソーンから目覚めて世界を再構築することができる方法が禅にはあるのです。その方法は言語を離れる訓練なのだと私は体験から感じます。

 

 

まとめ

ここに書いたことは全て私自身の体験によるものです。したがってその方法は皆さんが体験することでしか検証することは出来ないでしょう。

科学的検証も方向性と可能性を示唆する意味では必要かと思います。

 

ただし、マインドフルネスや禅は経験する以外に本当に知ることは出来ません。どんなに美味しい食べ物があって、それを映像や言葉やデータで説明しても食べた本人しか分からないのです。

 

したがって、ここに書きました方法に関しては皆様自身の五感で経験してください。私とは違う世界が広がるかもしれません。なぜなら、宇宙は無限の宇宙を産み出し続けているからです。