数多くの情報があふれる現代、「瞑想」が注目されています。

「そもそも『瞑想』って何なの?」
「瞑想と言えば『ヴィッパサナー瞑想』という言葉をよく聞くけど、それってどういうこと?」
「どうして瞑想が今、注目されているのか?」
と考える人もいるのではないでしょうか?

アップルの創業者の一人、スティーブ・ジョブズが実践していた瞑想も、現在数多くのメディアで紹介されている「マインドフルネス瞑想」も、もとをたどればブッダが約2500年前に生み出した瞑想からきているとされます。
瞑想の目的は、知性が発達した人類が苦から解放されることです。ブッダは紀元前500年の時代に、苦しみから解放される方法として、瞑想を生み出したとされます。

この記事では、『ブッダの瞑想法』(地橋英雄著・春秋社)という書籍をもとに、今「瞑想」と言われるすべての源流といわれる「ブッダの瞑想法」について解説していきます。


ブッダの瞑想法とは?


書籍『ブッダの瞑想法』とは?

今回、書籍『ブッダの瞑想法~ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』を参考に、ブッダの瞑想法について解説していきます。まずは書籍の紹介から。
『ブッダの瞑想法』は、2006年に発行された275ページにわたる書籍。ブッダの考え方や瞑想法について日本人の視点から、わかりやすく解説されています。

著者の地橋英雄さんは、実際にブッダの瞑想「ヴィパッサナー瞑想」を経験され、現在は朝日カルチャーセンターなどで瞑想の指導をされています。1948年生まれで、30歳の時(1978年)に「悟りを求めて修行の道に入り」ました。「最後に原始仏教のヴィパッサナー瞑想に出会って信が定まりました」とあとがきで書いています。

難解なブッダの瞑想や原始仏教の思想を、一冊の本にわかりやすくまとめ、瞑想の基本的な実践方法についても触れています。ブッダの瞑想は今から2500年も前の紀元前500年ごろに生まれたものにもかかわらず、現代を生きる私たちと同じ視点でわかりやすく具体例をもって伝えています。

「ブッダの瞑想法」とは?

「ブッダの瞑想法」とは「ヴィパッサナー瞑想」と呼ばれるものです。現在、「瞑想」としてさまざまな場面でよく使われている「マインドフルネス瞑想」も、ブッダが約2500年前に生み出したヴィパッサナー瞑想が起源とされています。


ヴィパッサナー瞑想とは?



「ヴィパッサナー瞑想」とはどういうものなのでしょうか?

「ヴィパッサナー」とは、主に上座部仏教の経典で使われるパーリ語で、「観察する」を意味します。
※この記事で使われるカタカナの専門用語は、ほぼパーリ語にもとづいています。

ヴィパッサナー瞑想とは、
一言でいえば、今ここ、この瞬間に何が起きているのか、自分の心と体が何を経験しているのかに気づき、ありのままに観察することです。

本義は、「現在の瞬間の事実に気づく」。
そう言われてもなかなかピンとこないかもしれません。
もう少し詳しくみていきましょう。

瞑想の方法については、仏教では大きく分けて2種類あるとされます。
  1. ヴィパッサナー瞑想
  2. サマタ瞑想
です。

ブッダはもともと、サマタ瞑想をしてきました。しかし、サマタ瞑想に限界を感じ、ヴィパッサナー瞑想に移行したことで悟りの境地に達したと言われます。
その後、ヴィパッサナー瞑想のシステムを数多くの人たちに伝え、弟子となった人たちが仏教として後世まで伝えていきました。

サマタ瞑想とは?ブッダが当初目指したもの


ブッダが当初、目指したサマタ瞑想とは、簡単に言えば、「集中瞑想」です。


一点集中型の瞑想で、反復される言葉やイメージなどの瞑想対象に意識を集中し、最終的にはその対象と合一してしまうほどの深い統一状態を目指していく技法です。(中略)この主体と客体が融合してしまう究極の意識状態を「サマーディ(三昧、禅定)」と呼びます。当時はブッダ自身も、ブッダの直弟子たちも、まずサマタ瞑想を修してからヴィパッサナー瞑想にシフトする手順を踏むのが習わしでした(『ブッダの瞑想法』より引用)


しかし、このサマタ瞑想によるサマーディの状態にするのは非常に難しいとされます。
そこで、ブッダは最初からヴィパッサナー瞑想の本義「現在の瞬間の事実に気づく」作業を瞑想の中で進めていくことを提唱しました。

なぜヴィパッサナー瞑想なの?


なぜヴィパッサナー瞑想なのでしょうか?そこにはこの瞑想に隠された2つのカテゴリがあるからです。

ヴィッパサナー瞑想の2つのカテゴリとは次のものです。
  1. 「気づきの瞑想」
  2. 「清浄道」

というものです。

1.気づきの瞑想
狭義の「ヴィパッサナー」でもあり、マインドフルネス瞑想の基本でもある、今ここに意識を向けるあり方とも重なります。
基本的に瞑想とは、こちらを指す場合が多いようです。

今ここ、この瞬間を思い込みや判断、
観念をはさまずに、
ありのままに観察して、
純粋な事実に気づいていく作業=サティをします。サティの訓練を中心に進めていくのがこちらの瞑想です。

2.清浄道

清浄道とは
サティをはじめ、戒やサマタ瞑想、徳を積む善行など諸々の行法をすべて包含する巨大なシステム
とされています。
基本的にヴィパッサナー瞑想は、サティを中心とした「気づきの瞑想」を中心に、清浄道も目指していくものです。


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瞑想のそもそもの始まり


知性を持った人類が求めたものとは?


そもそも瞑想ってどうやって始まったのでしょう?瞑想はずいぶん昔からあると言われています。
その起源として、筆者は原始宗教のシャーマニズムのトランス状態を例に挙げています。人類と97%遺伝子が同じと言われるチンパンジー。チンパンジーは知性が高いと言われますが、人類のように苦悩することはありません。実際に起きたことに苦しむことはあるでしょうが、まだ起きていないことを考え、そのことで苦しんだりすることはないでしょう。

言葉があるのが人類とチンパンジーの大きな違いです。言語が生まれることによって、人類の脳は大きく発達し、抽象能力や論理的能力を飛躍的に進化させたのではないかと考えられます。「概念」が生まれ、さまざまな情報を「知性」によって生活に役立てることができるようになったのです。


原始宗教にみられる「トランス状態」


人類はチンパンジーや類人猿といったものから進化して、宗教的な儀式を営むようになったとされます。そんななかでシャーマンといわれる祭りをつかさどる存在の人が、トランス状態になることで、儀式をとりはからっていたといわれます。

瞑想でも、「集中瞑想」で集中力が高まり、一種のトランス状態になる人もいるようです。こういった集中力が高まることで生まれるトランス状態は、宗教的儀式だけでなく、性的恍惚もあります。

一言でそれらのトランス状態をまとめるのなら、「主体と客体が一体化すること」です。自分が自分という個別の状態から離れ、自分以外のものと一体化することで、個としての「自分自身」の苦しみや個人的な苦悩から離れ、一種の快楽を得るということになります。

そこから一種の洞察や気づきを得て、集落内の運営に生かしたり、一つの都市、国の政治に生かしたりするということがされてきたのではないかともいわれています。日本でも卑弥呼をはじめとしたシャーマンを主体とする宗教をもとにした集団社会の一つのあり方であったとされます。


なぜ瞑想を求めるのか


しかし、なぜそのようなトランス状態とともにした「主体と客体の合一」を求めるのでしょうか?

人類の脳が発達し、“知性”が生まれることで人々の生活を豊かにした一方、私たち自身の苦悩も生み出してしまうことになったのです。私たちは実際に起きていないことまでも予測し、便利な道具を生み出す一方で、

「こんなことが起きたらどうしよう」「失敗したらどうしよう」「あの人にこんな風に思われたらどうしよう」

という、起きていないことにまで悩まされてしまう“妄想”を生み出すようになってしまったのです。

こういった“妄想”は自分自身を苦しめてしまうだけでなく、妄想や思い込みをきっかけに人とのいさかいを引き起こしてしまうなど、人間の根本である社会生活を揺らがしかねない事態を生み出してしまう可能性にもつながっています。

厄介なのは「死の恐怖」「死の不安」です。まだ起きていないことに不安や恐怖を感じて、今生きている生を生きにくくなるということが出てきてしまうのです。

こうして私たちを苦しめる“妄想”からの解放を求めて、人類は宗教あるいは宗教的儀式によるトランスを生み出したのではないかと言われています。

原始的な宗教と瞑想


・共通点
原始的な宗教的儀式で生まれたとされるシャーマンによるトランス。主体と客体の合一は死の不安をはじめとした人間の苦悩を克服するために生まれ、瞑想もまたそれに近いものだったと言われます。
人類が生み出した“苦”は、トランス状態によって一時的に解放されます。

・違い
原始的な宗教と瞑想、その違いはなんでしょうか?
瞑想もまた、原始宗教のトランス状態に近い苦しみからの解放をもたらします。しかし、その解放は一時的なものではないということは、ブッダが伝えたことだったのではないでしょうか?

トランス状態によって、“苦”から解放されても、それは一時的なものに過ぎません。トランス状態が終われば、また“苦”が続く現実に戻ります。瞑想の時に集中力を高めてエクスタシーを得た、もしくは性的恍惚を感じても、そのトランスが終わって自分に戻ったとき逆にその苦悩をより感じてしまう人もいるのではないでしょうか。
麻薬や覚せい剤などでエクスタシーを得た人が、その後気分の激しい落ち込みを感じ、依存症となってしまうこともそこに似たものがあるのかもしれません。

瞑想でも、集中力を高めて自我をなくしたことによる恍惚を感じるという過程はありますが、宗教のトランス状態がそこで終わってしまうのに対し、瞑想はさらにその先にある状態に向かいます。
瞑想でも「集中瞑想」では、集中力が高まると、主客の合一によるエクスタシーをもたらすとされます。しかし、瞑想はただそれだけで終わるものではありません。

本物の瞑想とは?


本物の瞑想とは主客の合一と超越の両方を目指すもの」です。本物の瞑想とは、トランス状態によって生まれる「主客の合一」だけでなく、超越の両方を目指します。
集中瞑想によって、主客の合一を目指すとともに、洞察瞑想により、超越を目指します。


「心を清らかにする」という世界共通にみられる瞑想

瞑想は、ブッダが伝えた「ヴィパッサナー瞑想」だけでなく、西洋やイスラム諸国の宗教においてもみられます。

イスラム教の人たちは、メッカの方向に向かって毎日決まった時間にお祈りします。また、キリスト教でも食事前に神様にお祈りを捧げるということもあります。

日本の神道でも、神社の拝殿を前に手を合わせてお祈りしますよね。

それがたった一瞬であっても、長時間であっても、手を合わせて、あるいは体をかがめてお祈りをするとき、私たちは「心を清らかにする」ということをしているのではないでしょうか?お祈りの言葉を唱えたり、無言であったり、やり方はそれぞれですが、その瞬間は、瞑想に近いと思われます。

お祈りの瞬間、誰かを貶めようとしたり、自己中心的なことを考えたりすることはあまりないのではないでしょうか?
神社で願い事をお祈りしているとき、それは自分のお願いであっても、純粋な自分の「やりたい」気持ちであって、他者を凌辱するような人はあまりいないと思います。

瞑想には、精神集中や精神的な超越を目指すといったものだけでなく、私たちが日々の生活のなかで他者や自己への欺瞞、凌辱などといった苦しみの世界から離れ、相手を思いやり、自分を大切にする「心を清らかにする」ことを目指すという意味合いもこめられているのではないでしょうか。


「ブッダの瞑想法:ヴィッパサナー瞑想の理論と実践」の神髄

ヴィッパサナー瞑想の考えかた

ブッダの瞑想法「ヴィパッサナー瞑想」で重要なポイントは3つといわれます。


「法」は「真実に存在しているもの」「実在」「真実の状態」であり、仏教では「ダンマ」とも言われます。
「概念」は「イメージや言葉」であり、法(ダンマ)の「事実(実在)」とは異なるものであり「拮抗し合っている関係」となります。つまり、私たちは事実ではないもの、イメージや言葉を事実として受け取ってしまうことで苦しみが生まれているとします。
概念と事実とをはっきり分けることが瞑想において重要な作業となってきます。

瞑想の目的は苦からの解放

瞑想の目的は苦しみからの解放です。
心をきれいにして、事実をありのままに観ること。そして、事実とイメージを区別することが、苦しみから解放するポイントとなります。

人間のすべての苦は、「妄想」や「煩悩」、「雑念」にまつわる思考活動から生まれていると、ブッダは2500年前に説いたとされています。瞑想によって、苦しみのもととなる「妄想」に自ら気づき、そのことで苦しみから解放されるというものです。

「苦」とは?


しかし、そもそも苦とは何でしょうか?
では、苦しみについてもう少し詳しくみていきましょう。

・妄想が生む苦
基本的な苦悩は、「妄想」つまり人間の頭の中で起きるものから生まれるとされます。事実とは違ったことや起きていないことに勝手に思考が生まれ、苦しみが生まれていきます。

・欲求が生む苦
または「苦」とは、単純に「欲求が満たされない状態」が思い起こされるのではないでしょうか?
「お腹が空いて苦しい」といった生理的欲求から、「あれがほしいのにお金がない」など苦しみとなる現象は、欲求が満たされない状態がイメージしやすいと思います。
しかし、また欲望を持つと、満たされるまで欲求不満の苦しみを感じ、たとえ満たされた状態でも、「不満足性が苦を生む」こととなります。

「心が清らか」でないことから生まれる苦
また、いくらお金を得て自由を手に入れても心が清らか」でないと、苦しみは生まれ続けます「自分さえよければいい」というような自己中心的な考えです。

つまり、物事をありのままにみることのできない状態が妄想を生み出し、苦しみとなります。また、自己中心的な欲求や考え方、他者への思いやりのない心も他者との軋轢や自身の苦悩を生みだし、苦しみになってしまいます。

苦を止める方法としてのヴィパッサナー瞑想


ブッダは、この心に苦しみが生まれてしまう過程を、ヴィパッサナー瞑想により止めることができるとし、人々の苦しみを解放する方法を伝えたのです。

ブッダが生み出したヴィパッサナー瞑想は、「思考を止めて、事実をありのままに観ることができれば、一切の苦(ドゥッカ)から解放されるだろう」
という理論に基づいています。

苦の原因が妄想にあるのなら、妄想が生まれる一瞬一瞬に気づくことにより、妄想の発生を止められるとしています。
この妄想の発生を止める過程や重要なことが先に挙げた3つのポイントです。

思考が始まった瞬間に「妄想」「イメージ」として認識することで、連鎖しようとする思考の流れを止めます。そのことでありのままに認知され、真実の状態で受け止めることができるということです。

ダンマ(法)
ありのままに観られた事象は夢でも妄想でもない「真実の状態」として、「ダンマ」と呼ばれます。

ダンマとして存在するものの本質を見極めていくことがヴィパッサナー瞑想です。真実が洞察されると、間違ったものの見方で生きてきた「無明」に愕然として、苦の原因を手放すことができるだろうということです。
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ヴィパッサナー瞑想の実践


ではどうすれば、思考を止めて「ありのまま」を認知し、ものごとを「真実の状態で受け止めること」ができるのでしょうか?


「法と概念の識別」の作業とは?

先に示した「法と概念の識別」が重要となってきます。

それは、「心の反応パターンを把握する」ということです。

仏教では、ものごとが知覚され、最終的な認識として確定されていくプロセスを「十二処」の構造で説明されています。


まず知覚される対象があり、それを五感に入り(六門)、識別し「(触→)識」、受取り、絞り込み、反応するというものです。
対象とは仏教用語で「色、声、香、味、触、法」とされています。

簡単に言えば、外界からの刺激が、人間の五感に訴えると、発作的に意味づけがされてしまいますが、意味づけをしてしまう前に、それまでの経路をしっかり分けて観察するということです。

最初に聴覚や視覚など五感の感覚、あるいは外界からの五感がなくても、心の中で浮かんでくるイメージもあります。そして、その後の識別、認知、反応までを細かく分けて観察します。

そうすることで、心の反応や人間の心が行ってしまう意味付けやそれにもとづく思考の連鎖を食い止められるということです。そうすることで、ありのままの事実をとらえられるようになるとされます。

心をきれいにする


心の反応パターンを、五感で受け取ったときから、身体がそれを識別し、認知し、反応するといったそれぞれの経路をしっかりとらえ、ありのままを観察するということがまず大事です。

さらに自分自身の心の中で生まれる反応をきれいにしていくことも求められます。つまり意思決定をする瞬間の心、行為を実行する瞬間の心、どの過程においても心のくもりを取り除いておかなければなりません。

人と喧嘩をしたり、うそをついたりといった生活や精神的に不安定な心の状態では、瞑想することはできないとしています。普段の生活においても、一瞬一瞬の心において、仏教でいう「五戒」を守ることが重要となります。

五戒とは、「故意に殺さない」「盗まない」「不道徳な性行為をしない」「嘘をつかない」「酒を飲まない」の5つの戒律で、これらを守るだけでも瞑想となります。


ブッダ瞑想のやり方のまとめ


ブッダの瞑想法のポイントは3つ
です。

では、具体的なやり方を個別の方法からみていきましょう。

「歩く瞑想」から始める



瞑想と言えば、足を組む座禅のスタイルが一般的なイメージかもしれませんが、「歩く瞑想」が最も難易度が低く、やりやすいでしょう。
体が動いている実感に意識を向ける方が、心の動きを観察するよりも簡単だからです。

実はヴィパッサナー瞑想は、「まず体の動きに気づくことから始め」るということなのです。

(引用)
“妄想は止めようと思っても止められません。私たちの心は、何を見ても聴いても、必ず連想や妄想が浮かんでしまいます。”
だから妄想を無理して止めることよりも、「一瞬一瞬の体の動作に注意を釘付けにしてしまう」ことにより、妄想からまずは意識を離れることを目指します。

歩く瞑想のやり方


では、妄想から意識を離れるために、どんなことをすればいいのでしょうか?

『ブッダの瞑想法』で「ステップ1」として紹介される方法をご紹介します。

  1. 足を軽く開いてまっすぐに立ちます。足の感覚に意識を集中しましょう。
  2. ふだん歩くより少しゆっくりのスピードで歩きます。
  3. 右足から歩き始めた場合、右足が動いた実感に対して「右」と言葉で確認します。
  4. 次に左足を一歩前に出します。右足同様、言葉で確認します。
①~④の繰り返しとなります。

歩く瞑想のポイント

  1. 歩行感覚に意識を戻す。
  2. 頭の中で生まれてしまう思考を「思考」「妄想」「気にしている」…などとして観察する。

このほかにも2つの方法が『ブッダの瞑想法』では紹介されています。ぜひ実践してみてはいかがでしょうか。

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座る瞑想


「座禅」といわれる禅宗の修行の一つとして広がり、瞑想のイメージとして根強い座る瞑想。
しかし、ヴィパッサナー瞑想では、座る瞑想も歩く瞑想も基本的には同じとされます。

歩く瞑想では、歩行感覚が中心。
それに対し、座る瞑想では呼吸するときのお腹が膨らみ、縮む感覚を中心にとらえます
ただ、基本的な方針は同じで、
の繰り返しです。

座る瞑想のやり方


  1. 好きな座法で座ります。(あぐらをかいてもいすに座るのでもOK)
  2. 自然呼吸をして、お腹の感覚を感じます。
  3. お腹の膨らむ感覚を感じて、「ふくらみ」などとありのままの言葉で確認します。
  4. お腹の縮む感覚を感じて、「縮み」などと言葉で確認します。
  5. 中心対象ではない感覚や思考が生まれたら、またお腹の感覚に戻ります。
①~⑤の繰り返しとなります。

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眠気・かゆみ・痛みが出てきたらどうする?

どんな瞑想をしていても、眠くなったり、かゆくなったり、痛みが出てきたりして、瞑想に集中できなくなることがあります。

・眠気
sleepy
瞑想をしていると、多くの方が眠くなることでしょう。眠さとたたかいながら瞑想をするのはつらいですよね。

眠気が出てきたら、中心感覚に戻すか、それが難しければ、眠気感覚を観察します。

眠気の身体感覚と、睡魔に襲われている心の状態とに仕分けて観察しましょう。

「とろんとしているな」とか「ぼんやりしているな」「だるい感じだな」とかただそのままの感覚を観察します。

眠気にまつわる気持ちが出てきたら、それも思考と同じように観察します。どんなこともありのままを受け入れて、観察し、眠気やそこから生まれる心を否定しないことが重要です。

・かゆみ、痛み

かゆみが出てきたときは、反射的に部位をかかないでおきましょう。

かゆみの感覚が出てきたら、「あぁかゆいんだな」とそのまま感じ、中心感覚に戻します。まだかゆみが出てきたら、かゆみをただ観察します。

「かゆいな」「皮膚が膨らんでいる感じ」「皮膚がひりひりするような感じ」「かゆみ」という具合に、生まれてくる感覚を言葉で確認します。それをひたすらしていくと、かゆみが引いてくることもあります。
痛みも同様です。

私たちは、すぐ反射的にかゆい部分をかいてしまったり、思考を始めてしまったりします。そうではなく、ただ生まれるその感覚を観察することが重要です。


効果を最大化するブッダの瞑想法


瞑想の効果を最大化する方法とは?


瞑想をしていても、頭の中にはいろんな考えごとに忙しくなって、しまいにはそちらに意識をとられてしまうということはありませんか?
私たちの頭の中には何万という雑念が日々、生まれると言われます。そして、人の頭の中は放っておけばネガティブなことばかりを考えてしまいがちです。

ネガティブな考えに苦しめられてしまわないよう、「心を浄める」ために原始仏教で必ず行うのが「慈悲の瞑想」です。
慈悲の瞑想をすることで、今ここありのままにとらえ(サティ)、苦しみとなる妄想から離れる効果をより最大化すると言われます。
また、サティの作業を進めて、ありのままにとらえることができても、最終的に自分の心の反応パターンが変わらなければ、今までと同じような苦しみを生む反応パターンを心にもたらしてしまうとされます。

慈悲の瞑想を並行して行うことで、心をきれいにした状態で瞑想することができ、苦しみを解放するという目的をより果たしやすくなるとされます。

慈悲の瞑想の効果とは?


私たちの心の反応を慈悲の瞑想で変えていくことで次のような効果があるとされます。
ぜひ、慈悲の瞑想を実践してみてはいかがでしょうか?

慈悲の瞑想やり方

慈悲の瞑想のやり方はとっても簡単です。
ただ、慈悲の瞑想の言葉を唱えるだけでいいのです。言葉を唱えるだけで、私たちの心にある苦しみを生む反応パターンが変わっていくとされます。


慈悲の瞑想Q&A


慈悲の瞑想はいつやる?
  1. サティ瞑想の前
  2. サティ瞑想終了後
  3. 移動中やちょっとした待ち時間、作業の合間など
ふだんの瞑想の前後でもいいですし、まとまった時間がとれないときに取り入れるのもいいでしょう。

どんな言葉を唱えるのか?

①私が幸せでありますように
 私の悩み苦しみがなくなりますように
 私の願うことがかなえられますように
 私に悟りの光があらわれますように

② ①の「私」→「私の親しい人々」に変え、あとは同じ
③ ①の「私」→「生きとし生けるもの」に変え、あとは同じ
④ ①の「私」→「私がきらいな人々も」に変え、あとは同じ
⑤ ①の「私」→「私をきらっている人々も」に変え、あとは同じ
⑥ ①の「私」→「すべての衆生が」に
こちらは①一行目の「すべての衆生が幸せでありますように」を3回となえる

言葉を覚えられません。どうしたらいいの?
意味を変えることがなければ正確に言葉を覚えられなくても大丈夫です。
自分の言いやすいように変えても大丈夫です。

自己中心的じゃないことを目指すのに、どうしてまず「私」なの?

まずは、「私が幸せになる」ことが大事です。他人ではなく、自分自身を清らかにすることから始めましょう。


さいごに


「ブッダの瞑想法」が教えてくれること

ブッダの瞑想法は、ブッダの教えを大量の経典から知識で入れ込むのではなく、身体感覚も伴った状態で本質的に感じ取ることができるものです。
ブッダの瞑想法を実践してみることで、ブッダが古来伝えてくれた人間の苦から解放する道のりをご自身の生活の中に落とし込むことができるのではないでしょうか。


いま情報があふれる社会で心を健康に生きる方法

現代社会には、多くの情報があふれています。「SNS疲れ」というだけでなく、最近はSNSによって自ら命を落とすという痛ましい出来事もありました。
現代のテクノロジーによる発展は、「便利で豊か」な生活をもたらしたようで、その実、私たちの心は苦しみが増えているという現象も起きているのです。

『ブッダの瞑想法』の著者地橋さんは
取り込む情報が増えれば増えるほど、頭の中はそのことにまつわる妄想で充満していきます。回避すべき悪いものは見ない、聞かない、近づかない、情報を取り込まないという方針を立てることが大事です。
とも伝えています。

数多くの情報がある現代において、瞑想を取り入れることで妄想から離れ、情報との付き合い方についても考え直す必要があるのではないでしょうか。


ブッダの瞑想法を生活に取り入れてより豊かな生活を


ブッダが2500年も前に瞑想を生み出したとき、今の私たちとはずいぶん違う社会だったと思いますが、いつの世になっても人間の苦しみは変わらないということを今もって伝えています。むしろ、ブッダの瞑想法は、情報があふれる現代社会において重要性を増しているように感じられます。

あなた自身の生活に今回ご紹介した瞑想法を一つでも取り入れていただくことで、より豊かで健康的な生活につなげていただけたらと思います。

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※本記事の内容は、執筆当時の学術論文などの情報から暫定的に解釈したものであり、特定の事実や効果を保証するものではありません。